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寿海酒造株式会社

串間市北方。串間市街地の郊外、田園風景を臨む丘に寿海酒造株式会社の広い工場があった。
寿海酒造株式会社の創業は昭和60(1984)年。串間市内で焼酎を造っていた5つの蔵が、「協業」することで、それまでの技術を生かした新しい蔵が誕生したのだ。
まずは、創業当時の理事長の国府光朗さんに、寿海酒造株式会社の歴史から話を伺った。
「私たちは地元で飲まれる焼酎を造ってきました。しかし、流通がよくなると、田舎の方にも大手メーカーの焼酎がどんどん入って、私たちはそれに対抗する力がありませんでした」と言う国府さん。自身も、國光焼酎という蔵元の社長だった。
次々に廃業する蔵が出る中、小さな蔵元が生き残るために、と市内5つの蔵元が選んだのが協業組合(現 寿海酒造株式会社)だった。

寿海酒造株式会社の写真

寿海酒造株式会社

ひむかくんと寿ちゃん

ひむかくんと寿ちゃん

応接室にあった20年前の各蔵元の焼酎

「春光」(石上商店有限会社)の写真

「春光」
(石上商店有限会社)

「くろつち」(古田焼酎合名会社)の写真

「くろつち」
(吉田焼酎合名会社)

「國光」(國光焼酎合名会社)の写真

「國光」
(國光焼酎合名会社)

「百薬の長」(谷村醸造合名会社)の写真

「百薬の長」
(谷村酒造合名会社)

「玉の露」(玉の露醸造合名会社)の写真

「玉の露」
(玉の露醸造合名会社)

「当時、5つの蔵を合わせても800石程度。石にかじりついてでも、組合を成功させなければ、私たちの焼酎の歴史は終わる、そんな思いが私たちを奮い立たせました。組合化することで県から高度化資金を受けることができ、この広い敷地を得て工場を建設することができました。でも、できあがった工場を見て、本当にうまくいくのか、身震いするような思いをしたのを覚えています」
「毎月の半分は県外の問屋へ売り込みに出かけました。しかし、その頃はどこへ行っても芋焼酎はなかなか売れませんでした。でも、造るしかない、売るしかない。なんとか10年目で目標の数字はクリアできました」
そうして、年間2万5000石を造る工場が完成し、地場のコトブキ芋を使った自信作「ひむか寿」ができあがった。

看板の写真

国府さんに工場を案内してもらった。
ちょうど、原料の芋を満載したトラックがやってきた。
「これはとてもおいしい、串間自慢のコトブキ芋です。農家と契約して規格外の大きいものを買い取っています。桜島の火山灰が積もったシラス土壌に掘った室で土の付いたまま保存できるため、年間通して芋焼酎の仕込みができるんですよ」

コトブキ芋の写真

コトブキ芋

最初に見せてもらったのは、洗浄水の浄化槽。敷地内には焼酎粕を水に変える国内初の処理プラントも設置されている。環境へのいち早い取り組みも業界内で注目を集めた。

工場内を歩いていると「こんにちは」と、あちこちから声がかかる。どの顔も笑顔だ。こんな顔で造る焼酎、うまいんだろうな・・・。
「年に4回は社内で宴会やりますよ。現場では厳しいんですが、仕事を離れたら仲間ですからね」と国府さん。なによりも人が大事、と語る苦労人が見せる笑顔は本物のやさしさがある。

折しも、芋焼酎ブーム。特徴のある芋焼酎が都会で売れる時代だ。主力商品の『ひむか寿』は、まろやかな味わいと甘い風味があって、「2杯飲むところ3杯飲める」と、関東を中心によく出ているという。

「生産ラインも、ちょうど新しい機械の導入時期でもあったことから、35%増産しました。ようやく生産も安定して、こちらのペースで商売ができるような体力がついてきたと思います。地元の原料を使ったおいしい焼酎を、地元のみなさんと一緒に作り続けますよ」

浄化槽の写真

浄化槽。米や芋や麦を洗う水は1日120トン

焼酎粕を水に変える処理プラントの写真

焼酎粕を水に変える処理プラント

三角棚の写真

三角棚
(ドラムで米や麦に種麹を混ぜて一晩おいたものを、この棚に移す。温度が上がると冷風を送り、32.5度から33.5度の間になるよう24時間監視し、翌日一次仕込みのタンクへ)

『ひむか寿』と『赤芋仕込み。ひむか寿』の写真

『ひむか寿』と『赤芋仕込み。ひむか寿』

仕込み室 の写真

仕込み室

タンク内の蛇管の写真

タンク内の蛇管
(タンク内の温度が34度以上にあがると酵母が弱ってしまうので、その温度まで上がったら中に水を通して冷やす)

常圧の蒸留器 の写真

常圧の蒸留器

室内の貯蔵タンク室 の写真

室内の貯蔵タンク室

屋外貯蔵タンク の写真

屋外貯蔵タンク

ビン詰め作業中 の写真

ビン詰め作業中

寿海酒造株式会社

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更新日:2017年5月22日

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