更新日:2011年12月1日

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焼酎にまつわる文化

高千穂のかっぽ酒

山仕事の合間にたき火で沸かした「かっぽ」。

カポカポと心地よい音と、青竹の香りを楽しむかっぽ酒。

かっぽ酒は、青竹の筒に酒を入れ、囲炉裏やたき火で燗をつけたもので、青竹の香りが移った酒は、昔は「2級酒が特級酒になる」といわれるほど、香りよく味を深める飲み方だ。それをいただく盃もまた青竹を切って作ったもので、山仕事ならずとも、野趣を楽しむ宴席を盛り上げている。近年はもっぱら焼酎を入れて飲まれている。

かっぽ酒は、注ぐときにカポカポという音をたてることが名の由来になっているが、音を立てるためには、節を抜くときにコツが必要で、一番上の節は穴を小さく開けるとよい音がするという。

もともとかっぽ酒は、山仕事の合間に、手近な青竹を切って、節を抜き、清水の水を入れてたき火にくべ、茶をわかして飲んだことに始まる。これを「かっぽ茶」といい、高千穂町の名所・高千穂峡を見おろす高千穂大橋そばにあるお食事処「神楽宿」敷地内には「かっぽ茶発祥の地」の看板が立てられている。

山で茶を飲むための簡易湯沸かしとして、また、ちょっとした煮炊きにも使っていた、青竹の「かっぽ」。
やがて、酒を入れてかっぽ酒と呼ばれるようになるが、簡単に煮炊きしてすぐに食することが、後の「割烹(かっぽう)」の語源になったという説もある。
かっぽ酒は、青竹から出る竹の油が酒に溶け込むことで旨くなるめ、古竹や一度使った竹は使用しない。

1mほどに切って節を抜いた青竹が「かっぽ」

1mほどに切って節を抜いた青竹が「かっぽ」。湯をわかして山で摘んだ茶葉を入れて茶を飲んだり、酒を入れて燗をしたりと、山の生活の中から「かっぽ」は生まれた

高千穂峡の写真

高千穂峡

かっぽ酒は山里の生活から生まれた

かっぽ酒は山里の生活から生まれた

都城の南交(なんこ)

南九州の『飲ん方』文化を代表する数当てゲーム。負けたら飲む! これまた楽し。

手の中の南交珠、合計何本?

酒の席が盛り上がってくる頃、宴席の中で1対1の勝負が始まる。
「いっどー。礼!」
「みやこんじょー」
「たかじょー」
「おぉーっ、みやこんじょじゃ。いっぺいっきゃん」

南九州に伝わる酒の席の遊び「南交(なんこ)」。対戦する2人が、双方出した手の中に、合計何本の南交珠があるかを当てる遊びだ。

南交は1対1(時にはチーム戦)の勝負で、対戦する2人は足の付いた南交台(もしくはお盆)を挟んで対座し、手にはカランと澄んだ音をたてる一辺1cm、長さ10cmの南交珠(なんこだま)を3本ずつ持っている。

ここから先は、その時々で細かいルールが変わることがあるが、基本はこうだ。
まず、対戦する両者が座布団に座ると、審判が声をかける。
「礼!」。

南交は、武道よろしく対戦の始めと終わりは必ず礼をするのが決まりだ。

次に、じゃんけんをして、負けた方から先に南交珠を掌に隠し持った手を前に差し出す。そして、勝った方はあとから手を出して、自分が持っている本数+相手が出しているであろう本数を足して申告する。のちに、負けた方が本数を言う。

双方言い合ったら、審判の前で掌を開き、勝負がつかなければ何度でも繰り返す。
南交台の脇には、焼酎の入った黒ぢょかと盃が置かれていて、勝負に負けた方が焼酎を飲む。

かけひきが肝心。単純なだけに遊び心満点。

南交は数当ての単純なゲームだが、そこにさまざまなかけひきがある。
南交珠を握って差し出した手が0本でも3本でも形が変わらないように握ったり、敢えてチラリと見えるように握ったり。

ちなみに、冒頭のやりとりを訳すと、
「さあ始めるよ。礼」
「4本!」
「5本!」
「おぉー、4本だ。さぁ、一杯いきなさい」
となる。

なぜに4本が「みやこんじょ」で、5本が「たかじょー」か。
これは、単に数字を言い当てても面白みがないという遊び心から生まれた、南交特有のあて言葉だ。
この言葉も、これまた地域によって、いろいろある。

南交の数当て言葉

0本 →「お手ばら」(手の中が空っぽ)、「おいやらん」(誰もいない)
1本 →「天皇陛下」世の中にひとりだけ)、「でんしんばした(電信柱)」
2本 →「侍」(二本差し)、「げたんは」(下駄の歯)
3本 →「げたんめ」(下駄の目)、「いんのしょんべん」(犬が小便をするとき片足をあげる)
4本 →「みやこんじょ」(都城は『市』=四)
5本 →「たかじょー」(高城の大地主・後藤氏が『後藤(ごつ)どん』と呼ばれていたことから『ご』=五)
6本 →「けねじゅ」(家内中。みんな)

※ほかに、0×0、1×1、2×2、3×3の同数を指して「ずっ」「ひとしこ」など。また、相手が言った数よりも1つ多い場合は「兄(あにょ)」、1つ少ない場合は「弟(おとっ)」とも。

長い長い南交の歴史

南交は、5~6世紀の中国(南北朝時代)に行われていて、日本では仁寿3(853)年文徳天皇の御前で南交が行われていたという記述があるという。その後、江戸中期には子どもの遊びとなっていた。
一方で、島津義弘が慶長3(1598)年に、朝鮮の役から帰ってきたとき、箸を使った遊びを朝鮮から伝えたとの説がある。南交珠を使わず、箸を握って対戦することもあり、地域ごとに遊び方にもアレンジが加わっている。それだけ、酒の席で親しまれていたことが伺える。

ちなみに、ここでいう「酒」とは、もちろん焼酎だ。
こうした南九州独特の焼酎文化・南交も、時代とともに姿を消しつつある。

都城市には、都城盆地南交保存会が作られ、平成2年から保存、普及、愛好を目的に活動を続けている。名人、師範、練士と7級から初段までの段位があり、約150人の会員をもつ。

南交は、座を囲む人々の心を通わせる。
その土地でできた地の焼酎を賑やかに酌み交わす、焼酎ならではの『飲ん方(のんかた=酒宴)』文化だ。

南交珠と南交台の写真

南交珠と南交台。ともに堅木で作られていて、台に放すとカランと澄んだ音をたてる

正式なルールでは、座布団に座って南交台を挟んで対座する。脇の盆には黒ぢょかと盃

正式なルールでは、座布団に座って南交台を挟んで対座する。脇の盆には黒ぢょかと盃
(撮影協力:霧島酒造)

日南の四半的

弓も矢も四尺五寸。的も四寸五分の四半的。

一般民衆に許されたミニ弓道は、焼酎を飲みながら親睦を深める娯楽だった。

九州の小京都とも呼ばれる城下町日南市飫肥。
整然と区割りされた武家屋敷通りに、復元された大手門などがあり、文化庁の伝統的建造物群保存地区に指定された静かな佇まいを見せるまちだ。
大手門近くにある観光駐車場の脇に、四半的の射場がある。1回300円で楽しめるとあって、観光客がよく訪れている ※毎週水曜定休(祝日の場合開場)

四半的は、弓と矢が四尺五寸、的が四寸五分、的場までの距離が四間半と、すべてが「四半」であることから名付けられた。いわばミニ弓道だ。
四半的の歴史は400年以上前にさかのぼる。
飫肥城では文明16(1484)年から84年間、伊東氏、島津氏の日本の歴史史上最長という城争奪戦が行われた。
この時、島津氏のたてこもる飫肥城を攻略した伊東義祐軍には、地元の農民が竹製の弓矢をもって合戦に参加していた。
長い戦いは伊東氏に軍配が上がり、勝利に貢献した農民たちに、小さな弓矢を持つことを許された。これが四半的の由来だ。
以来、庶民の間で娯楽として広まり、焼酎を飲みながら賑やかに当たった外れたと、親睦を深める競技となった。
現在は日南市の無形民俗文化財に指定されている。

四半的

個人戦、団体戦(1チーム5名)がある。いずれも、ひとり10本ずつ3回、計30射の当たり本数で競う。

飫肥城の観光駐車場脇にある四半的射場の写真

飫肥城の観光駐車場脇にある四半的射場。1回300円で10本の矢を射ることができる。

飫肥城大手門の写真

飫肥城 大手門

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